22歳の私は、思い描いていた夢敗れ、未来を遠く感じていた。
何もしなくても訪れる明日を、ただ受容していた。
31歳の今はどうか?
足元に咲く野草から未来を生きようとする意志を感じて、涙が込み上げてくる。
明日も陽が昇りますようにと願いながら、よる目を瞑る。
広田では、これまで経験してこなかった日常があった。
太陽が昇る4時半、畑に出て野菜の世話をする。去年より芽が出るのが遅いな。朝ごはんにこの間引いた葉っぱでも食べようか。そういや、誰々がこの野菜楽しみにしてるって言ってたっけ。そんなことを考えながら鍬を持ち、食物を自分の手で育てる人がいる。
一時帰宅して家族の朝食を作り、洗濯物を干して6時半。海から船で帰ってくる家族を外で迎える。お疲れ様、の言葉と引き換えに籠いっぱいの魚を受け取る。誰かに届けるものと夕飯になるものとを仕分け、海からの恵みを自分の手で捌き戴く人がいる。
毎日同じことの繰り返しのようで、その営みは自然に委ねられ、時に自分の決断の連続である。そして決断の先にある誰かの顔を常に想う。私は広田のばあちゃん達からそんな学びをもらってきた。
ー 大切なことはすでに足元にある。
それに気付ける余白が今の自分にあるかどうか。
よく観察して、事実は何であるか。
自分のジャッジではなく、事実に対して自分のwantである声は何なのか。
そうやって問い続けることが、この10年で得てきたもの。
自分が感じたものは自分のもの。でもそれを誰かと分かち合った時、誰かの一部にもなる。
悲しい、嬉しい、悔しい、楽しい。
その全てが今この瞬間の宝物だから、それに蓋をすることなく、誰かと共に生きるスパイスにしてほしい。
これを読むみなさんより少しお姉さんの、、煙山美帆からは以上です。
CMSP ?期スタッフ